働いているのに『プラマイゼロ』になっていませんか?

先日、約6年間パートとして働いていた仕事を辞めました、のりこです。

  • 子どもがいても、短時間でもいいから社会に出たい
  • 私も少しは稼いで、家庭内での市民権を得たい

そんな思いから始めてみた、1日たった4時間労働の、パート社員。

『たった4時間のパート』とはいえ、大好きな接客の仕事だったし、上司や同僚にも恵まれてストレスもトラブルもなし、会社からもそれなりに評価もしてもらえていたと思うので、本当に毎日が平和に楽しく、アッという間にすぎていきました。

仕事を辞めるきっかけ

そんなストレスフリーの平和な職場でぬくぬくと仕事をしながら、とりあえず『欲しいものは我慢せずに買える』程度のお小遣いを稼いでいた私。

仕事が終わったらちょうどよく息子のお迎えの時間。息子を迎えに行って午後は息子と遊び、夕方になると夕食を作って夜になる。

そんな日常生活のサイクルがすっかり出来上がっていたので、私は何の疑問も持たずに心地よくそのサイクルの中でハムスターのように毎日一生懸命走り続けていました。

ところがある日、冷静に考えてみたら1つ、気づいたことがあったのです。それは、

働いてるのに、何も残っていない (´⊙ω⊙`)

ということ。

『何も残っていない』とはどういうことかと言うと、

  • お金:稼いでいるのに資産になっていない=結局はプラマイゼロ
  • 時間:正味勤務時間は4時間だけど、通勤時間や出勤準備など総合すると結局7時間以上使う
  • 経験:基本的に毎日同じ仕事内容をこなすので、スキルが積み上がらない

という、3つの角度から見たときに、全てにおいて『プラマイゼロ』みたいな状態だったのです。

働いているのに、『プラマイゼロ』になってませんか?

私が約6年間も働いてきてやっと気づけたこの『プラマイゼロ』問題。

バリバリフルタイムで働いて、それなりにきちんとお給料ももらっているサラリーマンの方でさえ、実はよくよく考えると、同じことが起きている人がいっぱいいるのではないかと思い始めました。

① お金

『お金持ち度合い』を測る基準としてよく使われるのが、

突然『無給』になったら、その日から何日間生きていけるか?

と言う【日数】で表すもの。

要はその日数は『資産がいくら残っているか』『働かなくてもどれくらい食べていけるか』というのを測るバロメーターになるわけですが、

私の場合は、いいとこ『10日』くらいなもんでした ( ´ ▽ ` )

たった4時間のパートで、しかも仙台ということもあり時給だって関東ほど高くない。

だから毎月稼げる金額にも限界があるし、なおかつ入ってきた給料はほぼ全て使い切っていたということ。

また、交通費は支給されるものの私が乗る車は燃費が鬼悪いのでまかないきれずほぼ自腹、そして勤務先がスーパーだったのでどうしても帰りにあれこれと買い物をしてしまう

すると、

(その日稼いだ額)  ≒ (交通費+買い物で消える額)(๑º ロ º๑)〣  

という何とも悲しい結末になっていたんです。 

一生懸命働いていたあの私の4時間は、一体何だったんだ? (゚∀゚)

と今頃になって愕然としても、【時、すでに遅し】なんです。

② 時間

私がこの『プラマイゼロ』問題で一番もったいないと思わざるを得ないのが、『時間』です。

『時間』はこの世の生きとし生けるものすべてに平等に与えられているわけですが、私の場合は『最終的にプラマイゼロ』なことに対して、6年間という時間を費やしてしまったのです。

もちろん当時の私には、小さい子どもを預けて働けるのはこの職場しか選択肢はなかったですし、上の子たちの学費がとんでもなかった時期には、その支払いに当てることもできたので、すべてが無駄だったなんてことは思ってもいません。

ただ、『資産になることに時間を使わなければ何も残らない』という視点からちょっと乱暴な言い方をするならば、

『何も残らないなら、働かなくてもよかったんじゃね?』σ^_^;

と思っちゃうわけです。

私たちの親の世代、『団塊の世代』と呼ばれる人達までは、勤続年数に応じて毎年給料が上がったり退職金が出たり、自分たちの老後は何とかなるくらいの『資産』が残せた人も多いと思いますが、

私たちの世代は年金すら危ういと言われている中で、終身雇用もなし、退職金ももちろんなし。だとすれば、同じ時間を使うにしても、『資産』を残すことに時間を使わなければ、近い将来食いっぱぐれること確定なのです。

③ 経験

そしてこの『プラマイゼロ』問題も、せめてスキルや経験の積み上げができるならば、それは時間を使った価値はあると言えますよね。

お金と若さは残らなくても、せめて【思い出】と【経験】は残る ☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

でも私の場合は、毎日ほぼ業務内容が同じで、来るお客様もほとんど同じという環境で、しかもパート社員となると与えられる権限も責任も『それなり』なわけで、これまで国内外でやってきた接客業と比べるならば、

こんなに楽でいいのだろうか?(^_^;)

と思ってしまうほどでした。もちろん学んだこともたくさんありましたが、イメージ的には経験を積み上げるというよりは、【業務は毎日リセットされてまた最初から同じことのやり直し】という感じでした。

意外と多い、働いても『プラマイゼロ』の社会人

そんなわけで、私の場合は自分が楽しく働いてきたパートの仕事が、『収支トントン』のわりには通勤時間や準備する時間も含めると毎日なかなかの拘束時間になっていたということに気づき、遅ればせながら『違うことを始めなければ!』と危機感を覚えました。

でもこれって、私が務めていたパート先がブラックだったとかそういうわけでもなんでもなく、同じような条件や環境で普通に働いている人は世の中ゴマンといるということ。

要は、プラマイゼロになっているってことに気づいているかどうかの違いなんですよね。

働いているのに貧乏な、『ワーキングプア』なんて言葉が生まれちゃうくらい、世の中には働いても働いても全然豊かになってない人がいっぱいいるってこと。

関東で一人暮らししている新人サラリーマンには、毎月貯金に回すお金って手元に残るのかな? (´・ω・lll)

と他人んちの子どものことながら、心配になってしまうのです。家賃の安い仙台でさえ、働いて得たものが全部家賃と生活費に消えるという生活をしている人、少なくありません。

なので、ここでも誤解を恐れずに極論を言うならば、

毎月すんごい一生懸命働いてるのに『ゼロ』もしくは『プラマイゼロ』もしくは『マイナス』なら、働かない方がよくね?

と言う境地になってしまうわけなのです。

もし『思い出』と『経験』を貯めにボランティア的に下積みに行っているのであれば、ある程度貯まったらすぐに次の行動に移さないと、『プラマイゼロ』の底なし沼にハマりこむことになってしまいます。

平等に与えられた24時間という時間をどう使うか、どんな価値を生み出すか

 

生きとし生けるものすべ手に平等に与えられているこの24時間。

私の場合は1日合計7時間ほどの時間をパート先のために使って、最終的に収支が『ゼロ』という生活を6年間続けてきました。

何も残らないことに使っているこの時間。どうせ『収支ゼロ』なら働かなくていいし、『プラス』にしたいなら違う使い方をしないと

と気づいたのです。

世の中には、毎日不快でしかない満員電車に何時間も揺られて通勤したり、深夜まで残業したり、過酷な生活を毎日繰り返しつつも、結果『プラマイゼロ』になっている人もきっとたくさんいるはず。

  • その時間を違うことに使えるとしたら。
  • しかもそれが自分の好きなことだったら。
  • しかもそれで今よりも少しだけでも『プラス』になる可能性があるなら。

そんな風に考えた時に、みんなに同じように流れているこの今1秒1秒をどう使うか、何を意識して生きるか、その積み重ねが、ゆくゆくは大きな違いを生むことになるのではないかなと思うのです。

同じように流れていく時間なら、幸せ度高めに過ごす方がいい

みんなに同じように朝がきて、同じようにお昼がきて、同じように夜がくる。

その間、ぼーっとしていても忙しく働いていても、家事をしていても子育てをしていても、自由でも不自由でも、同じように時間は流れていくわけです。

だったら、その1分1秒に何を意識して、どこを目指して、この時間の積み重ねで未来の自分がどんな感じのライフスタイルを送れるかを考えてみるのも良いのではないかと思うのです。

色々頑張ったのに『プラマイゼロ』で終わる時間の使い方は、もったいない。(´;ω;`)

1円でも資産となるものを残すことに時間を使った方が『ただただ時間を浪費しちゃった』感はないわけです。

そしてその『資産となるものを残すこと』は人それぞれ違うわけですが、それを探す時にもできるだけ、自分がやっていて『楽しいこと』『嫌いじゃないこと』を見つけられると、それに使う時間が、幸せで楽しいものになりますよね。

まとめ

今回の記事では、私自身が6年間楽しく働いてきたけど収支決算『プラマイゼロ』だった実例を踏まえて、どうせ同じ人生の時間を使うなら、できるだけ『収支プラス』で着地して、資産を増やせる可能性のあることに使った方が良いのではないか、という話をご紹介しました。

私たちの誰もがみんな、同じ時間の中で生きている。

ならばできる限りその時間は、不機嫌で貧乏で不幸よりも、ごきげんでお金にもゆとりがあって幸せ感があった方が断然いい。

今の仕事がやめられない、もしくは今の仕事しかできないなら、今ある現実に、ちょっとだけ足してみるのもいいかもしれないですね。

ちなみに私がこんなことを考え始めたのは、スマホの中の写真を整理していた時に見つけた、亡くなるちょうど1年前の私の母の写真。

息子の運動会に来てくれたおばあちゃんは、そのあとすぐに体調が悪くなって、あれよあれよという間に亡くなってしまいました。

その1年前の元気だった母の写真を見た時に、『母はこの時、まさか自分が1年後に死んでるなんて思いもしなかったんだろうな』って思ったんです。

そう考えたら、私だってこの先、明日や1ヶ月後、1年後が今と変わらずやってくるなんて保証はどこにもないんです。

だから同じように流れていく時間も、その1秒1秒の価値を高めてみるのもいいかもしれません。それが積み上がったらきっと、豊かな人生になっているはず。

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